フリーウェアがただで配られる理由
2006.12.23 Saturday 00:39
フリーウェアは何故無料で配布されているのか?仕事でソフトを作っているとそれが理解出来ない人もいるようだ.
ソフトはコピーにコストがかからない.それが利点でもあると同時に普通の工業製品のモデルと矛盾する最大のポイントでもある.
そこで,自分なりにこんなたとえ話を考えてみた.
ソフトはコピーにコストがかからない.それが利点でもあると同時に普通の工業製品のモデルと矛盾する最大のポイントでもある.
そこで,自分なりにこんなたとえ話を考えてみた.
普通の人は毎日食事をする.晩ご飯を作って食べ,食べたら無くなるので皿を洗い,翌日はまた作る.
ここで,晩ご飯が食べても食べても無くならないと仮定しよう.常識で考えてそんなものがあるはずがない!とみんなが思うからこそ知的所有権の問題はやっかいなのだ.
ここはとある農村.お嫁さんがご飯を作って家族5人でお腹が一杯になるまで食べたが,まだ残っている.(食べても減らないのだから当然そのまま残る).そこで,普通なら残飯として捨ててしまうところだがまだまだ食べられるので,近所の人に配ることにした.周りみんなに配っても全然減ってない.そこで,道ばたに置いて道行く人にも自由に食べてもらうことにした.
さて,この人は損をしているだろうか?既に家族でお腹いっぱい食べたのだから別に残りは誰が食べようが全然関係ないだろう.
そんなこんなで,昔は自分で料理を作ってはみんなに配ると言うことをやっていた.年月が過ぎ,このあたりも人口が増えて街になってきた.街では仕事が忙しくて自分で食事を作っている暇がない人がいて,そういう人はレストランで食事をする.しかし,レストランでは作ったものを勝手に配られては商売が成り立たないので,残った物の持ち帰りは厳禁というルールになった.しかし,こっそり持参のタッパーに入れて持ち出し,仲間に配る人びとが出て飲食店の人びとは頭を悩ませている.
そんなこんなで大家族が崩壊してくると同時に街の外からだんだんとこの街に人が集まってくると,食事を自分で作る人がだんだん減ってきて毎日外食するのが当たり前という人も珍しくはなくなった.街のあちこちには大手のレストランがある.
しかし,依然として道ばたで自由に食べ物を配っている人もいる.他の街では食べたら無くなってしまう普通の食事しか見たことがなければ,レストランで食事をするのが当たり前でタダで食事をくれる人は頭がおかしいと思うかもしれない.
しかし,最初に戻って考えてみればわかるが,レストランで作っているものは商品なのに対して道ばたで配られている物は残飯なのだ.しかし食べても減らないから残飯と商品の区別はわからない.たしかレストランではきれいに盛りつけられて高級食材を使っているかもしれない.しかし,人によっては(多少焦げたり失敗したりしているかもしれないが)家庭の晩ご飯レベルでも十分に満足出来るものだろう.
そのうちにタダでもらった食事の味付けをさらに工夫して配る人が現れる.この人も自分の口に合わないから味付けを変えただけで,食べ終わったらやはり残飯なのだ.それをまた別の人が盛りつけを工夫したりしているうちに次第にレストランとレベルが変わらなくなってくる.
物としては同じように見えるが,レストランでは食事にクレームを付けても隣の人からのお裾分けにクレームを付ける人はいないだろう.
料理人に視点を移してみると,料理人の中には料亭でふんぞり返ったオヤジに頭を下げながら食事を作るよりは,作ったものを多くの人びとに食べてもらいたいと思うかもしれない.作ったものが自分の口に合わなかったらどうだろうか.
と,これは納得出来そうなたとえではあるものの,大規模なフリーソフトを作っている人の考えは実は説明出来ていない.
ここで,晩ご飯が食べても食べても無くならないと仮定しよう.常識で考えてそんなものがあるはずがない!とみんなが思うからこそ知的所有権の問題はやっかいなのだ.
ここはとある農村.お嫁さんがご飯を作って家族5人でお腹が一杯になるまで食べたが,まだ残っている.(食べても減らないのだから当然そのまま残る).そこで,普通なら残飯として捨ててしまうところだがまだまだ食べられるので,近所の人に配ることにした.周りみんなに配っても全然減ってない.そこで,道ばたに置いて道行く人にも自由に食べてもらうことにした.
さて,この人は損をしているだろうか?既に家族でお腹いっぱい食べたのだから別に残りは誰が食べようが全然関係ないだろう.
そんなこんなで,昔は自分で料理を作ってはみんなに配ると言うことをやっていた.年月が過ぎ,このあたりも人口が増えて街になってきた.街では仕事が忙しくて自分で食事を作っている暇がない人がいて,そういう人はレストランで食事をする.しかし,レストランでは作ったものを勝手に配られては商売が成り立たないので,残った物の持ち帰りは厳禁というルールになった.しかし,こっそり持参のタッパーに入れて持ち出し,仲間に配る人びとが出て飲食店の人びとは頭を悩ませている.
そんなこんなで大家族が崩壊してくると同時に街の外からだんだんとこの街に人が集まってくると,食事を自分で作る人がだんだん減ってきて毎日外食するのが当たり前という人も珍しくはなくなった.街のあちこちには大手のレストランがある.
しかし,依然として道ばたで自由に食べ物を配っている人もいる.他の街では食べたら無くなってしまう普通の食事しか見たことがなければ,レストランで食事をするのが当たり前でタダで食事をくれる人は頭がおかしいと思うかもしれない.
しかし,最初に戻って考えてみればわかるが,レストランで作っているものは商品なのに対して道ばたで配られている物は残飯なのだ.しかし食べても減らないから残飯と商品の区別はわからない.たしかレストランではきれいに盛りつけられて高級食材を使っているかもしれない.しかし,人によっては(多少焦げたり失敗したりしているかもしれないが)家庭の晩ご飯レベルでも十分に満足出来るものだろう.
そのうちにタダでもらった食事の味付けをさらに工夫して配る人が現れる.この人も自分の口に合わないから味付けを変えただけで,食べ終わったらやはり残飯なのだ.それをまた別の人が盛りつけを工夫したりしているうちに次第にレストランとレベルが変わらなくなってくる.
物としては同じように見えるが,レストランでは食事にクレームを付けても隣の人からのお裾分けにクレームを付ける人はいないだろう.
料理人に視点を移してみると,料理人の中には料亭でふんぞり返ったオヤジに頭を下げながら食事を作るよりは,作ったものを多くの人びとに食べてもらいたいと思うかもしれない.作ったものが自分の口に合わなかったらどうだろうか.
と,これは納得出来そうなたとえではあるものの,大規模なフリーソフトを作っている人の考えは実は説明出来ていない.
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