福翁自伝
2008.12.21 Sunday 11:37
インターネットで福翁自伝について触れている人がいたので,自分も図書館で借りて読んでみた.以前,人間は時間の流れを感じることができないという話を書いたが,この本を読んでみた理由の一つに激動と言われた幕末を生きた人が時代の流れをどう感じたを知ることができそうな気がしたからというのがある.
最近の感じたのは,大きな変化はエネルギーが蓄積されたあと火山の爆発のように一気に起こるが,それに達するまでの時間はけっこう長いのではないかということ.それと一時悪い時期があっても数十年という単位で見れば短い.しかしその場に実際にいれば長く感じる.そんなときにどうするのかという話にも興味があり,この本の中にヒントがないかと思いつつ読んでいた.
最近の感じたのは,大きな変化はエネルギーが蓄積されたあと火山の爆発のように一気に起こるが,それに達するまでの時間はけっこう長いのではないかということ.それと一時悪い時期があっても数十年という単位で見れば短い.しかしその場に実際にいれば長く感じる.そんなときにどうするのかという話にも興味があり,この本の中にヒントがないかと思いつつ読んでいた.
古い本なのでまず図書館で探したら,同じタイトルの本が何冊も出てきた.しかもすべて書庫に入っているのでどれがどれだかいまいち分からない.そこで発行年がもっとも新しい「慶應通信」の「新版 福翁自伝」をお願いしたら,文庫ではなくハードカバーだった.持ち歩くにはちょっと重いかと思ったが,上下二段の構成で文字も文庫本よりは大きいようで読みやすかった.段落毎に訳者の注が入っており,それを参照しながら読むことでさらに理解できる.
福沢諭吉は九州の中津にある下級士族の家に生まれ育ち,数え21歳で長崎に出て蘭学を学ぶ.翌年中津に帰されそうになったところで江戸に向かうが,兄が大阪にいたことから大阪で緒方洪庵に蘭学を学ぶことになる.
25歳のとき,蘭学の塾を開くというので江戸に呼ばれる.江戸から港のある横浜へ行き,オランダ語が通じるところが無いことに驚き,絶望し,英語への転向を決心する.27歳で咸臨丸にのってアメリカへ渡る.29歳ではスエズ運河を越えてヨーロッパに行っている.
江戸時代は門閥制度によりその地位は世襲であったために下級士族の子供はまた下級士族となる.諭吉の父が息子を僧侶にしたいと思ったことがある件を引きながその制度を憎んでいることを述べており,それが蘭学という当時では比較的新しい分野を志した理由でもあると思われる.
そして長崎・大阪と蘭学を学ぶわけであるが,驚くことに枕を使ったことがないというくだりが出てくる.いつも夜遅くまで勉強してそのままごろんと寝て目が覚めたら続きをやってという感じである.これは相当な勉強好きである.それと同時に飲み込みが早くまた書の内容も魅力的であったのだろう.内容が理解できなければ進まないし,また内容がつまらなくても進まない.長崎では特段一緒に勉強していた仲間がいたわけではなかったようだが,大阪では緒方の塾ということで塾生たちと一緒に過ごしていた.議論できる友がいることで理解が深まることもあったのかもしれない.
当時はコピー機がない上に外国の書は非常に高価であったので,まずは写本を作らなくてはいけない.これは手間がかかることであるが,逆に蘭書の写本を作るという仕事を引き受けることで勉強中の生活費を得ていた面もあったようだ.
当時の蘭学というのはオランダ語の本なら何でも片っ端から勉強する感じで,経済,工学,科学などさまざまな本が混在していたという印象を受ける.またただそれらを読むだけではなく,実際に実験を行ったりもしていた.こういった背景があったため,後にアメリカ・ヨーロッパに渡ったときも書で読んだことを実際に見たに過ぎず特段驚きはしなかったとある.
もう一つの驚きは行動力と情報力である.徒歩と船くらいしか交通機関がない中,長崎から大阪へ出るだけでも何日もかかる.そんな時代のアメリカ・ヨーロッパは遠いと行っても飛行機で一日で行ける今とは全然違う.さらにこれらは所与の物ではなく諭吉の判断によるものであった.長崎から江戸に向かおうと思ったときも当てがあったわけではなく,大阪で緒方の塾に入ったのも大阪に留まるよう兄に説得されてから探して見つけたとある.さらに咸臨丸は幕府によるものであるが,当時諭吉は幕府で働いていたわけではない.江戸で蘭学の名家といわれている家に出入りしており,その家と咸臨丸の艦長が親戚ということでお願いしたとある.少しでもチャンスがあればそれに賭けるという行動力が見て取れる話である.ちなみにその後のヨーロッパ行きは,幕府に雇われて行っている.
咸臨丸に関しては,現代と異なり情報伝達が限られている中で情報を見つけることができたのもある意味驚きである.咸臨丸がアメリカに行くといった話をどのように知ったのだろうか.基本は人脈なのだろうか.諭吉も兄が亡くなってからは中津藩に仕えており,留学に近い形で大阪の緒方の塾で過ごした後は藩の命で江戸に出てきているわけだから,一応の情報ルートはあったのかもしれない.
諭吉がヨーロッパから帰ってくると世の中は攘夷一色となっている.その後は攘夷論が日本中を席巻する中,身の危険を感じながら暮らす時期を何年間か経験している.剣術が流行るなど現代から振り返ってこの本を読むと攘夷論は滑稽に感じるのであるが,こんな時代にアメリカに行った諭吉の方が特殊なのであって,ほとんどの日本人は外国に行ったことはなく,また外国の情報もほとんど入らない時代である.さらに一般大衆がそのイメージに踊らされてしまうのは現代でも変わることはないところかもしれない.
しかしながら,攘夷論が大勢を占める中実際に倒幕の動きもあり,治安が悪化し何時戦場になってもおかしくないという意味では大変な時代であったと思う.
そんな中でも攘夷論のおかしさに最初から気づいていた諭吉は,世の中に振り回されずある時はひっそりと,慶應義塾を作ってからはそこで学問の道を貫いていけたのは確固たるビジョンがあったからだろう.開国・攘夷と言っても,海外を見たことのある人と無い人では全然違うと思う.
その他当時の世の中をうかがい知ることのできる話がいろいろと現れてきて,それはそれで興味深いところであるが,列挙していてはきりがないのでここでは割愛する.
福沢諭吉は九州の中津にある下級士族の家に生まれ育ち,数え21歳で長崎に出て蘭学を学ぶ.翌年中津に帰されそうになったところで江戸に向かうが,兄が大阪にいたことから大阪で緒方洪庵に蘭学を学ぶことになる.
25歳のとき,蘭学の塾を開くというので江戸に呼ばれる.江戸から港のある横浜へ行き,オランダ語が通じるところが無いことに驚き,絶望し,英語への転向を決心する.27歳で咸臨丸にのってアメリカへ渡る.29歳ではスエズ運河を越えてヨーロッパに行っている.
江戸時代は門閥制度によりその地位は世襲であったために下級士族の子供はまた下級士族となる.諭吉の父が息子を僧侶にしたいと思ったことがある件を引きながその制度を憎んでいることを述べており,それが蘭学という当時では比較的新しい分野を志した理由でもあると思われる.
そして長崎・大阪と蘭学を学ぶわけであるが,驚くことに枕を使ったことがないというくだりが出てくる.いつも夜遅くまで勉強してそのままごろんと寝て目が覚めたら続きをやってという感じである.これは相当な勉強好きである.それと同時に飲み込みが早くまた書の内容も魅力的であったのだろう.内容が理解できなければ進まないし,また内容がつまらなくても進まない.長崎では特段一緒に勉強していた仲間がいたわけではなかったようだが,大阪では緒方の塾ということで塾生たちと一緒に過ごしていた.議論できる友がいることで理解が深まることもあったのかもしれない.
当時はコピー機がない上に外国の書は非常に高価であったので,まずは写本を作らなくてはいけない.これは手間がかかることであるが,逆に蘭書の写本を作るという仕事を引き受けることで勉強中の生活費を得ていた面もあったようだ.
当時の蘭学というのはオランダ語の本なら何でも片っ端から勉強する感じで,経済,工学,科学などさまざまな本が混在していたという印象を受ける.またただそれらを読むだけではなく,実際に実験を行ったりもしていた.こういった背景があったため,後にアメリカ・ヨーロッパに渡ったときも書で読んだことを実際に見たに過ぎず特段驚きはしなかったとある.
もう一つの驚きは行動力と情報力である.徒歩と船くらいしか交通機関がない中,長崎から大阪へ出るだけでも何日もかかる.そんな時代のアメリカ・ヨーロッパは遠いと行っても飛行機で一日で行ける今とは全然違う.さらにこれらは所与の物ではなく諭吉の判断によるものであった.長崎から江戸に向かおうと思ったときも当てがあったわけではなく,大阪で緒方の塾に入ったのも大阪に留まるよう兄に説得されてから探して見つけたとある.さらに咸臨丸は幕府によるものであるが,当時諭吉は幕府で働いていたわけではない.江戸で蘭学の名家といわれている家に出入りしており,その家と咸臨丸の艦長が親戚ということでお願いしたとある.少しでもチャンスがあればそれに賭けるという行動力が見て取れる話である.ちなみにその後のヨーロッパ行きは,幕府に雇われて行っている.
咸臨丸に関しては,現代と異なり情報伝達が限られている中で情報を見つけることができたのもある意味驚きである.咸臨丸がアメリカに行くといった話をどのように知ったのだろうか.基本は人脈なのだろうか.諭吉も兄が亡くなってからは中津藩に仕えており,留学に近い形で大阪の緒方の塾で過ごした後は藩の命で江戸に出てきているわけだから,一応の情報ルートはあったのかもしれない.
諭吉がヨーロッパから帰ってくると世の中は攘夷一色となっている.その後は攘夷論が日本中を席巻する中,身の危険を感じながら暮らす時期を何年間か経験している.剣術が流行るなど現代から振り返ってこの本を読むと攘夷論は滑稽に感じるのであるが,こんな時代にアメリカに行った諭吉の方が特殊なのであって,ほとんどの日本人は外国に行ったことはなく,また外国の情報もほとんど入らない時代である.さらに一般大衆がそのイメージに踊らされてしまうのは現代でも変わることはないところかもしれない.
しかしながら,攘夷論が大勢を占める中実際に倒幕の動きもあり,治安が悪化し何時戦場になってもおかしくないという意味では大変な時代であったと思う.
そんな中でも攘夷論のおかしさに最初から気づいていた諭吉は,世の中に振り回されずある時はひっそりと,慶應義塾を作ってからはそこで学問の道を貫いていけたのは確固たるビジョンがあったからだろう.開国・攘夷と言っても,海外を見たことのある人と無い人では全然違うと思う.
その他当時の世の中をうかがい知ることのできる話がいろいろと現れてきて,それはそれで興味深いところであるが,列挙していてはきりがないのでここでは割愛する.
Comments