人は時間を感じられない
2006.12.28 Thursday 07:26
よく「あの頃が昨日のことのようだ」という言い方がされる.しかし,1年は1年.同一慣性系の中では時間の経過は公平だ.別に自分だけタイムリープしたわけではない.
そこで自分がどのように過去を感じるのかを考えてみると,実際には過去に起こった事象をスライドショーのように並べて思い出しているに過ぎない.スチルカメラで撮影した画像を並べて見ているのと同じだ.だから1年を振り返るのに1年を必要としない反面,それぞれの事象の間隔は捨てられている.たとえて言えば写真が少なければ早く過ぎ去った1年と思えるわけだ.
年を取ると1年が短く感じられるというのは,大人の方が生活の中で繰り返しが多く新しい発見が少ないこと,記憶力が衰えていることが原因ではないだろうか.
ここまでは自分のこと.これが他の人にも当てはまるかどうかは自分では確認しようがないのだが,先日図書館で借りた『生きることも死ぬこともイヤな人のための本』の中でも時間について似たような記述があり,同じことを考える人がいるものだと思ったのと同時に,この感覚が他の人にも当てはまるのだろうと思ったので,本稿のタイトルでは「人は」と一般化してある.
この本ではもう少し踏み込んだ説明がなされていて,時間を距離としての長さと同じ感覚で考えてはいけない,運動とその結果を持って間接的に時間を感じているとあった.たとえば100mを歩く場合,歩いた距離,足を動かすという運動をもって経過した時間経過を代用しているとのこと.外的事象と経験を知識・記憶で加工することによって時間が得られるのだ.
運動といってもこの場合は外的なものだけではなく,内的なものも含まれるのだろう.何か作業をしてて時間が経ったと感じるとき,時間を感じているのではなく疲労を感じているのだと思う.上の例でも足を動かす回数を数えることは無いだろうから,運動したことによる疲れ具合から経験的に経過時間を推測していると思われる.体調が異なれば疲労度合いが異なるので,同じように疲労しても日によって「まだこんな時間」「もうこんな時間」という違いが生まれるのだろう.
ただ,運動によって時間を感じていると仮定すると1つわからないことがある.人は歌を歌ったり音楽を思い出したりすることができ,正しくリズムを刻むには時間の流れを(相対的には)正確に再現する必要がある.頭の中でメトロノームの役割を担っているものはいったい何なのだろうか.自分としては音楽を記憶するときに無意識のうちに何か時間の物差しのようなものを当てており,再生するときもその見えない物差しを頼りに再現しているような気がする.
今少し考えてみたのだが,候補の1つめとして呼吸とその運動を挙げてみる.声を出す,あるいは鼻歌を歌うときには呼気を使う.息を使うと肺と横隔膜やその周りの筋肉の動きをある程度アナログ的に感じることができる.息を使った量とそのときの胸の周りの状態を連続的に刻むことで音が再生できるのだろう.
しかし,音楽を聴いてそれを声に出さなくても頭の中で再生はできる気がする.そのときはどうだろうか.耳から伝わった感覚を記録しているのだろうか.
そこで自分がどのように過去を感じるのかを考えてみると,実際には過去に起こった事象をスライドショーのように並べて思い出しているに過ぎない.スチルカメラで撮影した画像を並べて見ているのと同じだ.だから1年を振り返るのに1年を必要としない反面,それぞれの事象の間隔は捨てられている.たとえて言えば写真が少なければ早く過ぎ去った1年と思えるわけだ.
年を取ると1年が短く感じられるというのは,大人の方が生活の中で繰り返しが多く新しい発見が少ないこと,記憶力が衰えていることが原因ではないだろうか.
ここまでは自分のこと.これが他の人にも当てはまるかどうかは自分では確認しようがないのだが,先日図書館で借りた『生きることも死ぬこともイヤな人のための本』の中でも時間について似たような記述があり,同じことを考える人がいるものだと思ったのと同時に,この感覚が他の人にも当てはまるのだろうと思ったので,本稿のタイトルでは「人は」と一般化してある.
この本ではもう少し踏み込んだ説明がなされていて,時間を距離としての長さと同じ感覚で考えてはいけない,運動とその結果を持って間接的に時間を感じているとあった.たとえば100mを歩く場合,歩いた距離,足を動かすという運動をもって経過した時間経過を代用しているとのこと.外的事象と経験を知識・記憶で加工することによって時間が得られるのだ.
運動といってもこの場合は外的なものだけではなく,内的なものも含まれるのだろう.何か作業をしてて時間が経ったと感じるとき,時間を感じているのではなく疲労を感じているのだと思う.上の例でも足を動かす回数を数えることは無いだろうから,運動したことによる疲れ具合から経験的に経過時間を推測していると思われる.体調が異なれば疲労度合いが異なるので,同じように疲労しても日によって「まだこんな時間」「もうこんな時間」という違いが生まれるのだろう.
ただ,運動によって時間を感じていると仮定すると1つわからないことがある.人は歌を歌ったり音楽を思い出したりすることができ,正しくリズムを刻むには時間の流れを(相対的には)正確に再現する必要がある.頭の中でメトロノームの役割を担っているものはいったい何なのだろうか.自分としては音楽を記憶するときに無意識のうちに何か時間の物差しのようなものを当てており,再生するときもその見えない物差しを頼りに再現しているような気がする.
今少し考えてみたのだが,候補の1つめとして呼吸とその運動を挙げてみる.声を出す,あるいは鼻歌を歌うときには呼気を使う.息を使うと肺と横隔膜やその周りの筋肉の動きをある程度アナログ的に感じることができる.息を使った量とそのときの胸の周りの状態を連続的に刻むことで音が再生できるのだろう.
しかし,音楽を聴いてそれを声に出さなくても頭の中で再生はできる気がする.そのときはどうだろうか.耳から伝わった感覚を記録しているのだろうか.
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